拙者の自由闊達な徒然風聞書(Blog)

趣味の鉄道旅行や食べ物、お城巡りや気づいたこと、ぼやきなど日々出来事等自由奔放な日記です。

【'15夏山形_2】米沢藩15万石の歴史散策

米沢駅に到着し、歴史散策する前に

駅前の観光案内所へ足を運びます。

 

米沢の上杉家を知ることができる「文化施設共通入館券」

通称・米沢観るパス 1300円

上杉神社・上杉博物館・上杉家廟所・春日山林泉寺・東光の酒蔵・宮坂考古館

上記6施設のうち好きな5施設を選んで行ける共通入館券で、

最大660円もお得になります。

また、指定店舗で様々な特典がある、

おもてなしクーポンも付いています。

 

これを購入して、まずは…お昼なんでランチタイムですね。

まずバスで上杉城跡苑へ向かいました。

 

『上杉城史苑』は、米沢牛グルメからお土産まですべてが揃う

観光と旅のキーステーションです。

ゆったり広い物産販売フロアでは、米沢牛・菓子・地酒から、

米沢織・お鷹ぽっぽなどの伝統工芸品まで、

城下町米沢を代表するお土産が揃っています。

 

学生時代もここへ立ち寄って中のレストランで

確か…米沢牛のハンバーグを食べた思い出があります。

その同じレストラン「米沢牛レストラン・アビシス」で

米沢牛のステーキ丼セット(3,500円)を注文しました。

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(これから先、私のこの旅は米沢牛三昧となるのですが…)

 

食事後、まずは米沢市上杉博物館ヘ行ってみました。

数千に及ぶ上杉氏ゆかりの貴重な品々や国宝が収蔵されています。

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展示室は「常設展示室」と「企画展示室」に分かれていて、

常設展示室では上杉の歴史と文化を中心とした

「江戸時代の置賜・米沢」を主軸に構成されています。

企画展示室では、置賜の歴史、上杉文化など歴史や美術に関する企画展や、

郷土ゆかりの作家や作品を取上げた展示を行います。

 

博物館内は結構きれいで明るく、

また体験コーナーなども充実しており、

展示品がとても見やすく、説明文も解り易いので、

子供も大人も非常に楽しそうでした。

 

私の趣味である江戸時代の大名関連の資料集めをする為、

博物館ミュージアムショップで

「図録 特別展 国持大名上杉家(2015)」を購入して、

博物館を出て次は目と鼻の先にある上杉神社へ向かいました。

 

米沢藩祖である上杉謙信公を祀る神社。

旧米沢城本丸の奥御殿跡に建てられています。

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明治9年上杉謙信上杉鷹山を祭神として、米沢城本丸跡に建立されました。

明治35年別格官幣社(=明治政府が定めた神社の位置づけ、分類を表す。国に尽力した人物を祀る神社)

に指定され、このとき祭神は謙信のみとなり、

鷹山は摂社に祀られ松岬神社となりました。

大正8年に起こった米沢大火で類焼、

ほとんどの建物が焼け落ちてしまいましたが、

その後国からの援助金や米沢市民の労働奉仕などにより、

大正12年、現在の神社が完成。

神社内には、上杉神社の宝物殿である稽照殿があります。

 

お参りをした後、稽照殿へ向かいました。

上杉神社の宝物殿として刀や甲冑、絵画など約300点が収蔵展示されています。

中には国の重要文化財に指定されているものも多々あり、

歴史ファンには必見。

直江兼続が所用していたといわれている「金小札浅葱糸威二枚胴具足」、

いわゆる「愛」の前立の甲冑が展示されています。

他にも、上杉謙信が所用した鎧の中でも逸品といわれる

「色々威腹巻(重要文化財)」や、上杉景勝が所用した

「紫糸威伊予札五枚胴具足(日輪の前立て)(県指定文化財)」など、

上杉家由来の数多くの宝物を見る事ができます。

 

上杉神社参道には米沢藩の名君と言われる

上杉鷹山(治憲)の像が立っています。

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上杉鷹山は、宝暦元年(1751年)7月20日

日向国(現・宮崎県)高鍋藩主「秋月種美(たねみつ)」の次男として、

江戸で生まれました(幼名「直松」)。母の「春姫」は、四代目米沢藩主「上杉綱憲(つなのり)」の孫娘でした。

宝暦10年(1760年)に8代目米沢藩主「上杉重定(しげさだ)」の養子となり、

元服(成年の儀式)の際に名を「治憲(はるのり)」とします。

翌年の明和4年(1767年)に、家督を継いで弱冠17歳で9代目米沢藩主となった治憲(鷹山)は、

大きく傾いた米沢藩を救うため、まず「大検約令」発し、

役人の贅沢や無駄を正すことから、藩政改革への第一歩を踏み出します。

その後、農政を改革し、教育を進め、産業を発展させていくのですが、

最も大きな産業開発は「織物業」で、置賜特産の青芋(あおそ)を

原料とした縮織(ちぢみおり) に始まり、

これらを基として養蚕(ようさん)・絹織物へと発展していきます。

鷹山という名前にしたのは52歳からで、

文化3年(1806年)には、56歳となった鷹山が「養蚕手引」を発行・配布します。

文政5年(1822年)に72歳で死去しますが、

生涯を米沢藩の人々のために尽した功績は、

初代 上杉謙信と並んで後世に語り継がれています。

 

さて、次回は米沢藩上杉家御用酒屋 東光さんへと歩いていきます。

 

次回へ続く・・・