岡山駅について、まずは情報収集ということで、
岡山駅の観光案内所へ。
現在の時刻は16時前。岡山城と後楽園に行くのに
入場時間が間に合うかどうか聞いてみましたが、
どちらもまだ間に合う時間だったみたい。
岡山駅前から市電に乗って城下というところで
降りて、さらにそこからは徒歩で行ける。
ここで岡山城&後楽園の割引券付マップをもらって、
岡山駅前の市電乗り場へ急ぎます。
私が北海道にいたとき、札幌の近くに住んでいましたが、
このとき札幌大通りとススキノを大回りで結んでいた
市電に大変お世話になっていました。
地元・横須賀には路面を走る電車はないので、
岡山の路面電車を見ると、なんか懐かしいですね。
その近くで郵便局により、鳥取や岡山のパンフレットなどを
送り、カバンの中身を軽くしたかったので、レターパックを購入。
これを岡山城見学後、荷造りして送ることにしたのですが・・・
城下から案内板に従って歩いていくと、目の前に
後楽園の入り口と岡山城が見えてきました。
豊臣家五大老を務めましたが1600年、関ヶ原の戦いにおいて、
西軍方の主力となった秀家は改易となり、
西軍から寝返り勝敗の要となった小早川秀秋が
入封し備前・美作の51万石を所領とした。
ただ慶長7年10月18日(1602年12月1日)、
秀秋は無嗣子で没したため小早川家は廃絶。
岡山に入封し、ここに江戸期の大名である池田家の治世が始まる。
元和元年(1615年)忠継が無嗣子で没し、
弟の淡路国由良城主・忠雄が31万5,000石で入封。
寛永9年(1632年)忠雄の没後、嫡子・光仲は幼少のため
山陽筋の重要な拠点である岡山を
任せるには荷が重いとして、鳥取に国替えとなった。
代わって従兄弟の池田光政が鳥取より31万5,000石で入封し、
以後明治まで池田家10代約240年間、岡山藩を治めることとなった。
私がこの前に訪れた鳥取も池田家の領地でした。
鳥取と岡山の殿様は赤の他人ではなく、
同じ池田家の親戚同士という訳です。
岡山城に着いたとき、もう夕方の風景になっていました。
夕方の岡山城も味がありますね。
お城の内部も見てきました。中には備前焼を体験できるエリアがあったり、
お土産屋も入っていました。また、お城ができた成り立ちを説明した案内や、
歴代藩主に関する品など展示されています。
最上階の天守から金の鯱と後楽園を見ることができます。
最上階は涼しいいい風が吹いていました。気持ちがいい!!
ここから岡山の街を見下ろすのも乙なものでした。
あちこち見終わって、レターパックにパンフレット等を積めて封をした後、
次は後楽園へ向かいます。
後楽園入り口付近で夕焼けに照らされる岡山城を撮ってみました。
夕日に照らされるとまた違った風景になるんですね。
さて、お城の隣にある後楽園に到着。
岡山後楽園は、今から約300年前に岡山藩2代藩主池田綱政が
藩主のやすらぎの場として作らせた庭園です。
江戸時代の後楽園には、許しがあれば領民も入ることができました。
能を好んだ綱政は自ら舞う姿を見せたり、継政以後の藩主たちは、
参勤交代で岡山を留守にする間は日を決めて庭を見せています。
また、藩主のお客をもてなす場としても使われました。
明治4年、池田家では「御後園」を「後楽園」と改め、
17年には名園保存を目的に岡山県に譲渡しました。
当初は公園ではなく県庁付属地として公開されたため、
日没閉門などの決まりを作って保存が図られました。
昭和9年の水害、20年の戦災に遭いましたが、
江戸時代の絵図などに基づいて復旧がはかられ、
江戸時代の姿を大きく変えることなく今日に受け継がれています。
大正11年に名勝に指定され、昭和27年には
江戸時代のおもかげを伝える庭園として多くの方に愛され、
金沢の兼六園、水戸の偕楽園とあわせて「日本三公園」と称され、
今では日本三名園として親しまれています。
夕方の後楽園、この一角でアイスでも食べながらゆっくり・・・
いや・・・もう暑い!松江・鳥取を出てから歩きっぱなしで
お腹が空いた!!!
・・・という訳で後楽園を後にして市電乗り場まで歩き、
行きと同じ城下から市電に乗って岡山駅に戻りました(笑)
次回は岡山で地元で有名になったものを夕食とします。
(岡山のえびめしって?)