拙者の自由闊達な徒然風聞書(Blog)

趣味の鉄道旅行や食べ物、お城巡りや気づいたこと、ぼやきなど日々出来事等自由奔放な日記です。

【信州】小諸馬子歌ぶらり旅2

懐古園は白鶴城や酔月城とも呼ばれた小諸城の跡で

三の門には徳川家達(いえさと)公の筆になる

懐古園」の大額が掛かっています。

ここ、小諸城は、全国的にも珍しい城下町より低い穴城で、

浅間山の火山灰で出来ている谷と丘を利用して造られ、

水を用いず、崩れやすい断崖が堅固な要塞となっています。

IMG_0330_convert_20100403204922.jpg

IMG_0332_convert_20100410202413.jpg

ここは「四季を通して花の咲く城址公園」をめざし、

昨年から園内に花卉の植栽を計画的に行なってきたそうです。。

植栽箇所の一場所である二の丸跡には、約6000芽の福寿草が植栽されています。

福寿草が咲き揃い懐古園の新たな見所になっています。

IMG_0331_convert_20100410203225.jpg

小諸城の起源は平安時代、小室太郎光兼からはじまり、

徳川による天下泰平の時代に移ると、小諸城は徳川3代将軍

家光の弟の忠長の領有するところとなり城代が置かれた。

その後もめまぐるしく城主が変わり、石高も5万石から2万石へと減らされてきたが、

極めて要衝な藩領のため、歴代藩主には徳川譜代が配されていた。

元禄15年(1702年)、越後国与板藩より牧野康重が15,000石で入封すると、

版籍奉還まで約170年間、牧野氏が10代にわたって居城とした。

 明治4年(1872年)の廃藩置県小諸城は役割を終え、

明治13年1880年)に城郭は払い下げられ、

小諸藩の旧士族の手により本丸跡に神社が祀られ、

懐古園」と名付けられた。

その後、大正15年(1926年)に、造園の権威である本多静六の設計により、

近代的な公園に生まれ変わった。

これが、小諸城址の歴史です。

次回は小諸そばの名店へ行ってお蕎麦を食べます。

次回へ続く。。。

ブログランキングに参加しています。

宜しければ、下のバーナーと、

拍手ボタンをポチっと押してください、

お願いします。