黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の完全な城郭建築。
また、「現存12天守」の中で、唯一、
築城主として瓦には葵の御紋が付されています。
大天守の全高は、本壇から20m(しゃちほこの高さを入れると21.3m)。
本壇は本丸から8.3mの高さがあり、本丸の標高は約132mであることから、
大天守の標高は約161mあることになります。
山の高さは、同じ平山城である姫路城の約3倍の高さです。
江戸時代には、全国に170箇所はあったとも言われるお城ですが、
江戸末期から明治にかけての戦乱や明治政府による廃城令、
また天災や第二次世界大戦での戦災などにより、
数多くの城郭が失われ、今や江戸時代以前に
建造された天守が現代に残っているのは、
全国で12城しかありません。
これを「現存12天守」といいます。
国により国宝や重要文化財の指定を受けています。
該当する城郭は次のとおりです。
嘉明は羽柴秀吉に見出されてその家臣となり、
20才の時に賤ヶ岳の合戦において七本槍の一人としても有名です。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、
その戦功を認められて20万石となります。
そこで嘉明は同7年に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため、
普請奉行に足立重信を命じて地割を行い工事に着手し、
翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、
初めて松山という名称が公にされました。
その後も工事は継続され、寛永4年(1627)になってようやく完成します。
当時の天守は五重で偉観を誇ります。
しかし嘉明は松山にあること25年、寛永4年(1627)に会津へ転封されることになりました。
そのあとへ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入国し、
二之丸の築造を完成しましたが寛永11年8月参勤交代の途中、
京都で病没し、嗣子がいないので断絶します。
松平定行(徳川家親戚)が松山藩主15万石に封じられて以来、
次回は道後温泉へ行き、
坊っちゃん列車に乗車します。
次回へ続く。
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