拙者の自由闊達な徒然風聞書(Blog)

趣味の鉄道旅行や食べ物、お城巡りや気づいたこと、ぼやきなど日々出来事等自由奔放な日記です。

【伊予松山6】伊予・松山藩15万石のお城2

松山城の大天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、

黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の完全な城郭建築。

また、「現存12天守」の中で、唯一、

築城主として瓦には葵の御紋が付されています。

天守の全高は、本壇から20m(しゃちほこの高さを入れると21.3m)。

本壇は本丸から8.3mの高さがあり、本丸の標高は約132mであることから、

天守の標高は約161mあることになります。

これは「現存12天守」の平山城の中では最も高い城郭です。

山の高さは、同じ平山城である姫路城の約3倍の高さです。

江戸時代には、全国に170箇所はあったとも言われるお城ですが、

江戸末期から明治にかけての戦乱や明治政府による廃城令、

また天災や第二次世界大戦での戦災などにより、

数多くの城郭が失われ、今や江戸時代以前に

建造された天守が現代に残っているのは、

全国で12城しかありません。

これを「現存12天守」といいます。

これらの天守は、貴重な歴史的文化遺産として

国により国宝や重要文化財の指定を受けています。

該当する城郭は次のとおりです。

弘前城」、「松本城」、「丸岡城」、

犬山城」、「彦根城」、「姫路城」、

松江城」、「備中松山城」、「丸亀城」、

松山城」、「宇和島城」、「高知城

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松山城の創設者は加藤嘉明です。

嘉明は羽柴秀吉に見出されてその家臣となり、

20才の時に賤ヶ岳の合戦において七本槍の一人としても有名です。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、

その戦功を認められて20万石となります。

そこで嘉明は同7年に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため、

普請奉行に足立重信を命じて地割を行い工事に着手し、

翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、

初めて松山という名称が公にされました。

その後も工事は継続され、寛永4年(1627)になってようやく完成します。

当時の天守は五重で偉観を誇ります。

しかし嘉明は松山にあること25年、寛永4年(1627)に会津へ転封されることになりました。

そのあとへ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国山形県)上の山城から入国し、

二之丸の築造を完成しましたが寛永11年8月参勤交代の途中、

京都で病没し、嗣子がいないので断絶します。

その後寛永12年、7月伊勢国三重県桑名城

松平定行(徳川家親戚)が松山藩主15万石に封じられて以来、

14代世襲して明治維新に至りました。

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次回は道後温泉へ行き、

坊っちゃん列車に乗車します。

次回へ続く。

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